東日本大震災から4か月あまり。NNN系列局である宮城テレビの応援のため、先週一週間宮城県に行ってきました。
飛行機が仙台空港に着陸する直前、目に飛び込んできたのは沿岸部の信じがたい光景でした。

津波被害を受けた松の木です。ほとんどが内陸部に向けてなぎ倒されていました。
機内ではほかの乗客もみな言葉を失ったように呆然と窓の外を見つめていました。

甚大な被害を受けた仙台空港は一部で営業を再開したばかり。
地震と津波の痕跡はまだあちこちに残っていました。
応急処置が施された天井、建物の柱や壁には私の背丈より高い場所に泥水の痕が・・・。
空港の通路は「東北に力を」と書かれた全国からの激励の寄せ書きや千羽鶴で埋め尽くされていました。

仙台市内へ向け車を走らせるとあちこちに「がんばろう!東北」と書かれた看板が。

まもなく、うず高く積まれたがれきの山が迫って来ました。
なぎ倒された電柱、田んぼの中にはひっくり返った車、大破した何十台もの車、一階部分が完全に損壊した住宅、そこには震災前どんな風景だったのか全く想像もつかない荒涼とした景色が広がっていました。


津波被害のない仙台市中心部でも、屋根にブルーシートを張った住宅が目立ちます。地震で瓦が落ちた住宅でした。津波だけでなく地震による被害もこんなにあったのか、と驚きました。
応援に入った宮城テレビも地震被害を受けました。応急工事は終えたそうですが、現在も建物と建物の間にズレがあったり、ヒビが入った窓ガラスもありました。

こちらでは震災当時、1階ロビーが臨時の避難所となり付近の住民のみなさんが避難されていたそうです。
宮城テレビでも津波の犠牲になった方や家族や親戚を亡くされた方もいるそうです。
報道制作局 情報センターの編集長も自宅を津波で流されたと聞きました。にもかかわらず編集長は震災以降しばらくの間、不眠不休で震災特別番組やニュースの制作にあたっていたと部員の一人が明かしてくれました。ご本人は私が滞在した一週間、一言もそうした逆境には触れることなく、私に仕事を教え、黙々とニュースと向き合っておられました。
「もし、自分が同じ立場になったら同じことができるだろうか?」
最近、自問自答する毎日です。
家が流され、家族とも連絡がつかない状態。
果たして会社に泊まり込んで同じことができるか?と。
震災から4か月あまり。各地で復興に向けた動きが活発となり、取材すべき出来事が山のようにあります。宮城テレビのデスクは「県民に資する情報は何か?どんなニュースを放送すれば報道機関の使命を果たせるのか」を常に念頭に置きながら取材を進めていました。
私が滞在した一週間の間にはうれしいニュースもいくつかありました。
気仙沼港で一本釣りカツオの水揚げが再開されたというニュースには海の男たちの底力を見ました。
塩害の被害を受けた農家が田んぼの除草を始めたニュースでは「来年は絶対米作りを再開させるよ!」との復興にかけた熱い思いを感じました。
一方で課題も山積しています。
進まぬ仮設校舎建設の問題、あちこちに無造作に置かれたがれきの問題などです。
私が訪れた多賀城市のがれき置き場のすぐ隣には中学校がありました。
付近には吐き気をもよおす異臭が漂っていました。
ハエも異常発生し、タクシーを乗り降りする数秒間に車内へ何匹も入り込んでくる有様です。

似たような場所はほかにもあり、被災地の子どもたちは劣悪な環境での学習を強いられています。
我々報道に携わる者はこうした問題点を的確に伝え、一刻でも早く現状を改善できるよう国や行政に促すことが使命だと感じました。
一週間の応援を経て帰路につく前、仙台空港の一帯を改めて見てまわりました。
震災から4か月あまり。
被災地は今、緑に包まれつつあります。
全壊した住宅のまわりにも名前はわかりませんが小さな雑草が綺麗な青い花を咲かせていました。

被災地のみなさんには大地へ根を張るように、あきらめず希望を持って一歩ずつ一歩ずつ復興の道を歩んで欲しいと願っています。
ここ鹿児島からも被災地に向けて復興への県民の思いを伝えることができます。
いえ、もっと何かが出来るはずです。それを常に考えながら毎日のニュースを伝えていきたいと思っています。