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蛭川アナ アーカイブ

2012年01月06日

うれしい知らせ

うれしい知らせとともに2012年が明けた。

「もしもし・・・」

電話を取った妻の目にはうっすらと涙が滲んでいた。
電話の相手は妻の元同僚の女性。
妻が結婚前に東京で勤務していた会社でお世話になった方だ。

妻は結婚後鹿児島へ。
一方、女性は故郷に戻り家族と暮らしていた。
そこは岩手県宮古市。
去年3月の震災で壊滅状態となったあの街だ。

鹿児島と岩手に離れたあとも妻と女性の交流は続いていた。
毎年季節になると女性からは地元産のイクラが届いた。
醤油漬けと塩漬けの2種類。
醤油漬けの方は宝石のような輝きを放ち、歯を跳ね返すほどの強い弾力があった。
塩漬けのイクラは芳香な濃い味わいだった。

「いままで食べていたものは本当にイクラだったのか・・・」

そう思わせるほど美味い。まさに至高のイクラだった。
我が家からは鹿児島名物“しろくま”を贈った。
そんな何でもないやりとりが何年も続いていた。
あの震災が起きるまでは。

去年3月11日。
テレビに映し出されたカメラの映像に絶句した。
大津波は女性が住む岩手県宮古市の大部分を飲み込んだ。
妻は何度も女性の自宅に電話をかけるが繋がるはずもない。

見るからに街は壊滅状態。

確か女性の自宅近くには川があって、イクラはその川で獲れるシャケのものだと聞いたことを思い出す。
映像を見るたびに絶望感に打ちひしがれた。

それから岩手県警のホームぺージにアクセスして恐る恐る死亡者リストを確認する日々が続いた。
ホームページには膨大な量のリストがアップされていた。

1歳 24歳 90歳・・・

老若男女 津波は様々な世代、多くの命を一瞬にして奪った。
リストは何十ページも続く。
パソコンのマウスを握る手が震えた。

「名前がありませんように・・・」
 
定期的に検索した。
女性の名前がアップされることはなかった。

妻は岩手の公的機関に女性の安否を問い合わせようとはしなかった。
きっと死を告げられるのが怖かったのだろう。

「きっと生きてるよ」

ほかにかける言葉が見当たらなかった。

去年末―
一縷の望みを託して女性に年賀状を出してみることにした。
女性が生存していて住所変更届けを郵便局に出していれば届くのではないか、そう考えたのだ。

文面をあれこれ思案したものの、気の利いた言葉が浮かばない。

結局こんな文言を添えるのがやっとだった。

「お元気ですか?連絡をください」

年が明けた3日。
待ちに待った女性からの電話が来た。

「生きていてくれた!!」

聞けば震災当時、女性は自宅におらず避難して津波から逃れたという。
だが、自宅はすべて流されていた。

震災前、女性は両親と姉夫婦、その子どもたちと同居していた。
お父様だけが避難所に一旦避難したあと、荷物を取りに自宅に戻って波にのまれたそうだ。
地震から1か月後にご遺体が発見されたという。
妻は電話口でお悔やみの言葉をかけた。

女性は「まだうちはましな方だよ。遺体が見つかっただけでもましな方だよ」と気丈に答えてくれたという。
女性の一家は現在、仮設住宅で暮らしているそうだ。

「寒いでしょ?何か欲しいものはない?」

ただでさえ雪深い極寒の地。妻は何か物資を送りたい旨女性に告げた。
女性は「気を遣わないで」と言いながら、「あのかき氷食べたいな」と話し、涙声の妻を逆に笑わせてくれた。

話し合った結果、まずはさつまいもを送ることに決めた。この時期抜群に甘い安納芋にした。

焼き芋にして冷え切った体と心が少しでも温もれば、そう願いたい。

2011年07月21日

宮城で見た現実

東日本大震災から4か月あまり。NNN系列局である宮城テレビの応援のため、先週一週間宮城県に行ってきました。
飛行機が仙台空港に着陸する直前、目に飛び込んできたのは沿岸部の信じがたい光景でした。
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津波被害を受けた松の木です。ほとんどが内陸部に向けてなぎ倒されていました。
機内ではほかの乗客もみな言葉を失ったように呆然と窓の外を見つめていました。
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甚大な被害を受けた仙台空港は一部で営業を再開したばかり。
地震と津波の痕跡はまだあちこちに残っていました。

応急処置が施された天井、建物の柱や壁には私の背丈より高い場所に泥水の痕が・・・。
空港の通路は「東北に力を」と書かれた全国からの激励の寄せ書きや千羽鶴で埋め尽くされていました。
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仙台市内へ向け車を走らせるとあちこちに「がんばろう!東北」と書かれた看板が。
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まもなく、うず高く積まれたがれきの山が迫って来ました。
なぎ倒された電柱、田んぼの中にはひっくり返った車、大破した何十台もの車、一階部分が完全に損壊した住宅、そこには震災前どんな風景だったのか全く想像もつかない荒涼とした景色が広がっていました。
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津波被害のない仙台市中心部でも、屋根にブルーシートを張った住宅が目立ちます。地震で瓦が落ちた住宅でした。津波だけでなく地震による被害もこんなにあったのか、と驚きました。

応援に入った宮城テレビも地震被害を受けました。応急工事は終えたそうですが、現在も建物と建物の間にズレがあったり、ヒビが入った窓ガラスもありました。
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こちらでは震災当時、1階ロビーが臨時の避難所となり付近の住民のみなさんが避難されていたそうです。

宮城テレビでも津波の犠牲になった方や家族や親戚を亡くされた方もいるそうです。
報道制作局 情報センターの編集長も自宅を津波で流されたと聞きました。にもかかわらず編集長は震災以降しばらくの間、不眠不休で震災特別番組やニュースの制作にあたっていたと部員の一人が明かしてくれました。ご本人は私が滞在した一週間、一言もそうした逆境には触れることなく、私に仕事を教え、黙々とニュースと向き合っておられました。

「もし、自分が同じ立場になったら同じことができるだろうか?」

最近、自問自答する毎日です。
家が流され、家族とも連絡がつかない状態。
果たして会社に泊まり込んで同じことができるか?と。

震災から4か月あまり。各地で復興に向けた動きが活発となり、取材すべき出来事が山のようにあります。宮城テレビのデスクは「県民に資する情報は何か?どんなニュースを放送すれば報道機関の使命を果たせるのか」を常に念頭に置きながら取材を進めていました。

私が滞在した一週間の間にはうれしいニュースもいくつかありました。
気仙沼港で一本釣りカツオの水揚げが再開されたというニュースには海の男たちの底力を見ました。
塩害の被害を受けた農家が田んぼの除草を始めたニュースでは「来年は絶対米作りを再開させるよ!」との復興にかけた熱い思いを感じました。 

一方で課題も山積しています。
進まぬ仮設校舎建設の問題、あちこちに無造作に置かれたがれきの問題などです。
私が訪れた多賀城市のがれき置き場のすぐ隣には中学校がありました。
付近には吐き気をもよおす異臭が漂っていました。
ハエも異常発生し、タクシーを乗り降りする数秒間に車内へ何匹も入り込んでくる有様です。
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似たような場所はほかにもあり、被災地の子どもたちは劣悪な環境での学習を強いられています。
我々報道に携わる者はこうした問題点を的確に伝え、一刻でも早く現状を改善できるよう国や行政に促すことが使命だと感じました。

一週間の応援を経て帰路につく前、仙台空港の一帯を改めて見てまわりました。

震災から4か月あまり。
被災地は今、緑に包まれつつあります。
全壊した住宅のまわりにも名前はわかりませんが小さな雑草が綺麗な青い花を咲かせていました。
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被災地のみなさんには大地へ根を張るように、あきらめず希望を持って一歩ずつ一歩ずつ復興の道を歩んで欲しいと願っています。
ここ鹿児島からも被災地に向けて復興への県民の思いを伝えることができます。
いえ、もっと何かが出来るはずです。それを常に考えながら毎日のニュースを伝えていきたいと思っています。

2011年01月16日

磯の王者イシダイに魅せられて⑧

去年夏、ようやくチャンスが訪れた。

場所は鹿児島市内の近場の磯。3度目の釣行だった。

朝6時から竿を出し気長にその時を待つ。

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気温は35度近い。
容赦ない日差しが降り注いでいた。

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近くで上物狙いの常連さんが数人竿を出していたが、太陽が真上に来るころにはみな引き上げていた。

午後3時。

満潮から干潮へと潮が動き始めた。

とともに竿先が揺れる。

叩くようなアタリも。

エサのガンガゼが素針になっていた。

緊張の連続。

バッカンに残っていたガンガゼは残り1個。

「今度こそ」の願いを込めてケンを切り落とし針を通す。

仕掛けを投入し、竿をピトンにセットする。

最後のガンガゼを海中で何者かがつついている。

「ツンツン、ツンツンツン」

そして・・・

「ズ、ズ、ズドーーーーーーーーーン」

竿先が海面に激しく突っ込んだ。

「きたぁ!!!!!!」

必死にリールを巻いた。
何分くらいの出来事だったのか、
頭が真っ白でその間のやりとりはよく覚えていない。

海面を割って出たのは縞目鮮やかなイシダイだった。

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「やった!やった!!やっとあげたぞぉ!!」

誰もいない磯で1人大声で叫んだ。

イシダイにしては決して大きくないサイズだが私にとっては大きな一歩。
価値ある1枚となった。

自分で釣り上げたイシダイ。
夢にまで見たイシダイ。

それが今目の前で「バチッバチッ」と音をたてて跳ねている。
涙がでるくらいうれしかった。

その日、我が家の食卓にはイシダイの刺身が並んだ。

コリコリとした身は絶品だった。
皮も湯引きしてポン酢でいただいた。

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「これがイシダイか・・・。うまい。うますぎる。」

箸が止まらなかった。
以来、私はイシダイに魅せられ休みのたびに釣糸を垂らす日々を送っている。

そして海風に吹かれながらこんな思いをかみしめている。

「どんなことでも夢はいつか叶う」と。

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2011年01月10日

磯の王者イシダイに魅せられて⑦

こうして私の釣り人生を振り返ると、親・祖母・系列局の先輩など多くの人々に支えられ、
育てられ、今の自分があることに気付かされる。

話を戻そう。
海釣り公園でイシダイの迫力に圧倒された私は独学で釣り方のほか
どんな道具が必要なのかを学んでいった。
暇があればイシダイ釣りのDVDや専門誌に目を通した。

専用の竿、両軸リール、専用ライン、瀬ずれワイヤ、15号前後の大きな針、ウニ通し、ウニばさみ、
バッカン(エサ入れ)、ピトン、ハンマー、ストリンガー(釣れた魚を繋ぐ)ペンチ・・・など、
一式揃えるとなるとかなり手のかかる釣りである。

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おこずかいが月3万円の私にはとても一度に揃えられるはずもなく、少しずつ買い揃えていった。 
今月はネット通販で竿を半額でゲット!。
その次は釣り具店でセール対象のリール・・・といった具合だ。

最低限の道具を揃え、いざ海釣り公園へ。
でも現実は甘くない。ボウズの日が続いた。

竿先はもぞもぞと揺れるものの、大きな当たりまで繋がらないのだ。

忍耐の日々。

ところで海釣り公園には毎日竿を出す常連さんが数人いる。

南側のコーナーでマダイの浮き流し釣りをやる人。
サビキ釣りでアジを釣ってからそれをエサに「泳がせ釣り」でカンパチなどの青物を狙う人。
クロ(メジナ)専門の上物狙いの人。北側の先端で青物をルアーで狙う人。
お互いが顔見知りで、飲み物やお菓子などを交換して交流を深めている。

「アジ釣れたよ。エサにどうぞ!」

「いつもすまんね。からいもをふかしてきたから食べてね!」といった感じだ。

海釣り公園に通い始めてすぐ、私の竿が海面に向けてしなった。

「きた!イシダイか!?」

大慌てで魚とやりとりする私を常連さんたちが優しく見守る。

「それは本命じゃないね!」

「なんでわかるんですか?」

「引きが弱いよ。イシダイじゃないよ。」

指摘通り、あがってきたのは“イラ”だった。

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「なんだこのグロテスクな色は・・・おでこは膨れてるしぬるぬるして気持ち悪い・・・」

見た目の悪い魚・・・。
イシダイ釣りの代表的な外道だという。
針から外して海に帰そうとすると常連さんから意外な一言が。

「イラは食べられるんだよ!頭はゼラチン質で煮魚にするとうまいんだから!」

家に帰って、早速調理してみた。
まず塩でもんでねばねばを取り、うろこを落とす。
鍋に入れ醤油と砂糖をかけて煮込むとできあがり!

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身は淡白な白身で、ゼラチン質の頭や皮など結構うまかった。
しかし本命のイシダイはこの魚など比較にならないほど美味いという。

「あー早くイシダイ釣って食べてみたいな・・・・」

何度竿を出しても出しても釣れない幻の魚。

「いつになったら釣れるのだろう・・・・」。

その思いがイシダイと私の距離を徐々に縮めていった。

つづく

2010年11月09日

磯の王者イシダイに魅せられて⑥

熊本県民テレビのO先輩との釣行。
もう10数年以上前のことだ。

でも、その思い出は色あせることなく今も私の脳裏に鮮明に焼き付いている。


解禁日の3月1日。芦ノ湖は雪だった。

でも私達は冷たい湖に腰まで入って竿を振った。
なるべく水深のあるところまでフライ(毛針)を飛ばしたいからだ。

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「ヒルヒルちゃん!きょうは入れ食いだよ」

O先輩は1回り年下の私を「ヒルヒルちゃん」と呼んで可愛がってくれた。

私が当時所属していた東京支社営業部は広告主(スポンサー)からCMをいただくのが仕事。
広告主と放送局の仲人的な存在が広告代理店だ。

広告主や代理店に通ってCMをいただく。
 
例えば鹿児島地区にAスポンサーがCMを流す場合、予算が100万円あったとする。
民放が4局あるので均等に割れば1局あたり25万円となる。しかし、そうはいかない。

その局の視聴率パワー、販売促進における貢献度、そして何より影響力があったのは
「いかに通って担当者と良好な関係を築いているか」であった。

つまり、広告主や代理店に通った分だけ他社より多くのCMをいただくことができたのだ。

各営業マンの“人間力”がものいう世界・・・。
現在私が所属している報道部は取材先に足を運んだ数だけ、「情報」が取れる。
どのセクションも「得られるモノ」は違えど、仕事の中身は全く同じだと感じている。

O先輩とは担当する広告主や代理店が重なっているところが多く、
先方との懇親会があるときなどよく私を誘ってくれた。

「Oさんが可愛がっている後輩なら・・・。」と
KYTにとって新規の広告主もたくさん紹介してもらった。

公私ともにお世話になった“恩人”だ。

そのO先輩はわずか数投目で50センチオーバーのレインボートラウト(ニジマス)を釣って見せた。

「バチッバチッ」

雪の上で銀色の巨体が跳びはねた。

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「す・凄い!さすが先輩!! 俺も大物を釣ってみたいです!」

私はかじかむ手に「はぁっー」と息を吹きかけながら何度も竿を振った。

この日は水中に沈むタイプのフライ(毛針)を使い、
着水後20~30秒数えてからリトリーブした。(ラインを小刻みに引くこと)

まるで水生昆虫が水中で泳いでいるように・・・。   

するとー

「グ・グ・グーン!」

買ったばかりのオービス(洋竿メーカー)の竿が弓のように鮮やかな弧を描いた。

「きたー!」

かかったのは色鮮やかなレインボートラウト(ニジマス)!
O先輩には及ばないものの、45センチはあろうかという大物だった。

「ヒルヒルちゃん!やったね!!」

O先輩の満面の笑みが凍えそうな私の体を温めてくれた。

その後もブラウントラウトという同じマス科の珍しい魚も釣ることができた。

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黄金色に光る斑点が美しかった。

キャッチ&リリースが基本のフライフィッシング。

すぐに湖へ帰してあげないと魚が弱ってしまう。

だが、その美しい魚体にしばし見とれるヒルヒルちゃんであった(笑)。
                           
                                              つづく

2010年10月19日

磯の王者イシダイに魅せられて⑤

私は高校・大学時代テニス漬けの毎日を送った。
その間釣りの事は忘れていた。


時は流れ、1994年4月。
私はKYT鹿児島読売テレビに一期生として入社した。
最初に配属されたのは東京支社営業部。

そこで「人生の師匠」と出会うことになる。

当時、KKT熊本県民テレビ東京支社営業部に勤務していたO先輩だ。

O先輩は私が少年時代ルアー釣りにのめり込んだことを知ると
「こんな釣りもあるぞ!」とあらたな釣りを教えてくれた。

「フライフィッシング」だった。


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       (これは福島県の川で初めて釣ったイワナ)


フライとは鳥の羽根などで魚の餌となる水生昆虫を模して作る洋風毛針のこと。
ブラッド・ピット主演の映画「リバーランズ・スルー・イット」に出てくる釣り、
と言えばご存知の方もいるかも知れない。

はやる気持ちを抑え道具一式をボーナス払いで買い揃えた。

O先輩にはじめて連れていってもらったのは神奈川県の芦ノ湖だった。
ウェーダーと呼ばれるウエットスーツをはいて水の中へ。

腰のあたりまで水に浸かり、教えてもらった通り竿を振ってみる。
だが、糸はなかなか出ていかない。
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       (ただひたすら魚と向き合う筆者 しかし・・・)

フライフィッシングに「重り」はない。

頭の上で竿を前後に振り、遠心力を使ってライン(糸)を少しずつ出しながら
狙ったポイントにフライ(毛針)を落とす釣りだ。

フライフィッシングへのデビューは投げ方の練習で終わった。

次回の釣行に備え、私は空き地でフライを投げる練習に没頭した。
リーダー(細い糸)の先端にフライ(毛針)のかわりに毛糸を結んで何度も投げた。

遠くに空き缶を置き、中にフライが落ちるよう何度も竿を振った。
そう何度も何度も・・・。地味な練習だがこれが大事だと教えられた。

私のキャスティングがなんとかさまになってきたと判断した先輩は
私を再び神奈川県の芦ノ湖に誘ってくれた。

ここで私は人生最大の獲物と出会うことになる。

                             つづく

2010年10月15日

磯の王者イシダイに魅せられて④

小学生の頃、夢中になって呼んだ漫画がある。

「釣りキチ三平」である。

いわずと知れた矢口高雄さん原作の少年漫画。

大きな麦わら帽子がトレードマークで釣りが大好きな少年の物語だ。

田舎に住む少年が「四万十川の幻のアカメ」など日本中の魚はもちろん、
海外のブルーマリーン(カジキ)などの大会にも果敢に挑戦する。

アニメ放送が始まると人気が爆発。
日本中の子どもたちが釣りに夢中になった。

私は当時、MBCラジオの「アニメでGO!GO!」の大ファンで
釣りキチ三平のオープニング主題歌「若き旅人」をハガキでリクエストして
実際に流していただいたこともあった。
(この場を借りて御礼申し上げます)

そう、私が両親から初めて買ってもらった釣り竿は
この「釣りキチ三平」モデルの竿だった。

近くの川でフナやウグイを釣るにはちょうどいい柔らかさだった。

中学生になると鹿屋の自宅から自転車で30分ほどの場所に養魚場が経営する
ニジマスの釣り堀がオープンした。

私は兄とそこで初めてのルアー釣りに挑戦した。

金属片がクルクル回って魚を虜にする「スピナー」
スプーンのような形をしたその名の通り「スプーン」

湧き水で清らかな池。

何度投げても腹ペコ?のニジマスが大群で追いかけてくる。

「兄ちゃん!また釣れたよ!!」

時間を忘れて兄と釣りまくった。クーラーは満杯になっていた。
帰ろうとすると釣り堀の管理者の説明を聞いて青ざめた。

「100グラム●●●円になります」

料金は忘れたが、その釣り堀は釣った魚を100グラム単位で
客が買い取るシステムだったのだ。

「兄ちゃんいけんすいや?(どうしよう)」
「父ちゃん母ちゃんに電話すいが!」

両親に迎えにきてもらった。

ふたが閉まらないほどクーラー一杯のニジマス・・・。

「一体いくらになるのだろう」

おそるおそる会計をしている母を見ると、
財布の中から何枚もお札が出て行くのが見えた。

「ヤバイ、怒られる・・・。」

ところが両親の反応は全く逆だった。

「よくこんなに釣ることができたね!」
「2人は将来釣り名人にならせんどかい?(なるかもね)」

自宅に帰ると両親はうれしそうに私達が釣った魚を近所の人たちに配っていた。

「雄二たちが釣ったの。食べきれんから食べて」と。

夕飯はニジマスの塩焼き。ほくほくした白い身にポン酢をかけて食べた。
少年時代の思い出の味だ。

この頃から本格的に釣りが好きになった。と同時に、
“ほめて伸ばす教育法”を取ってくれた両親にいま感謝している。

                         つづく

2010年10月14日

磯の王者「イシダイ」に魅せられて③

イシダイとの衝撃的な出会い。
これが私の“釣り人生”を大きく変えることになった。


そもそも私が釣りを始めたのは小学校低学年の頃だ。
もう30年も前の話だ。
鹿屋市に住む祖母がよく川に連れていってくれたのだ。

私達が遊びに行くと祖母は笑顔で迎えてくれた。
手作りの竹竿が家の壁に3本立てかけてある。
兄と私と妹の分だとすぐに分かった。

台所の外の湿った地面をスコップで掘ると餌となる小さなミミズがたくさん獲れた。

祖母の家から5分も歩くと川(肝属川)に着く。

上流に焼酎工場があり、時期によっては原料のサツマイモを処理したカスが流されて
多少臭うこともあったが、私達にとっては最高の遊び場だった。

キラキラ光る川面と優しく見守ってくれた祖母の笑顔がいまも脳裏に焼き付いている。

その横で「ちょん」と竿を出すと小さなウキはすぐに流れの中に消えていく。


「ばあちゃん!なんかきたよ!!」


「あげっみやい!」


小さな小さな針には10センチほどのウグイがかかっていた。
普段、メダカを網ですくって遊んでいた私達にとってそれは“大物”だった。
その後もフナやウグイが面白いように釣れた。


「雄ちゃんは上手だね」


祖母が褒めてくれるたびに「ばあちゃんにもっと大きな魚を釣って見せよう」と
日が暮れるまで糸を垂らしていたものだ。

私の“釣り好き”はこのころから始まったのかも知れない。


大好きだった祖母はいまも天国から私を見守ってくれているに違いない。


「今度、雄ちゃんはどんな魚を釣るのかな?」と。
                            
                              つづく

2010年10月13日

磯の王者「イシダイ」に魅せられて②

男性の竿に反応があった。
モゾモゾと何かが餌のウニをかじっている。


竿先が細かく揺れる。


その瞬間、海面に向けて竿先が「ズドーン」としなった。


「あんなに太い竿がこんなにしなるの?」


恐怖さえ感じた。

男性が竿を上げて会心の合わせを叩き込む!!


「イシダイですよ」


体を持っていかれそうなくらい強烈な引き。

ベテランにもなるとその引きの感触で本命と分かるらしい。
十二分にやり取りを楽しんだあと、海面に奴が姿を現した。


「うぉ!イシダイだ!!」


男性は一気にぶり上げた。

奴はしぶきをあげながら“バチッバチッ”と跳ねまわった。

図鑑などでしか見たことのない幻の魚・・・。
銀色のボディに鮮やかな7本の縞。
ヒレは千枚通しのように太く尖っている。
エラも切れ味のいい刃物のよう。
あごは彫刻刀を上下に2本重ねたように鋭い。
この強靭な歯でウニの殻を砕いて食べるのか・・・。
それにしてもその精悍な顔立ちに私はしばし時を忘れて見とれていた。


「これが荒磯の王者 イシダイ・・・ですか?」


「そうだよ!刺身もうまいよ!!皮も湯引きすると最高だよ!」


「俺も釣ってみたい」


心からそう思った。一目惚れだった。

つづく


2010年10月12日

磯の王者「イシダイ」に魅せられて①

精悍な面構え、7本の縞模様、群を抜く強烈な引き・・・

荒磯の王者・イシダイ!!
釣ることの難しさから「幻の魚」とも呼ばれている。

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この1年間、私は「イシダイ」釣りに夢中になっている。
これはイシダイに魅せられた私の1年間の記録だ。

去年秋、私は鹿児島市の鴨池海づり公園を訪れた。
お目当てはアラカブ。

型の良いアラカブは煮つけに最高だ。
「4~5匹釣れれば良いか・・・」などと考えながら
いつもの場所に糸を垂らした。

潮風に吹かれ、雄大な桜島を眺めながらの釣りは
日常のストレスから心身ともに解放してくれる。
さわやかな朝日もまぶしい夕陽も心地いい。

ここは水深が20メートルから25メートル前後もあり、
様々な種類の魚が釣れることから週末は多くの家族連れで賑わっている。

エビを餌に簡単な仕掛けを垂らすだけで上層ではクロ(メジナ)、
中層では小アジやマダイ、底まで沈めるとアラカブなどが釣れる。
ときには釣れた小アジに青物(カンパチやハマチなど)やヒラメも
食いついてくるからたまらない。

この日は潮が良かったのか、アラカブが入れ食い状態だった。
私も夕食には十分な数を手に入れることが出来た。
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帰り支度を終え、長い釣り台を出口に向かって歩いていると
見たこともないような大掛かりなタックル(仕掛け)で釣りをしている
常連の男性が目にとまった。

これが私の人生を大きく変えることになる運命の出会いとなる。

太い竿と大きな両軸リール、絶対に切れそうにない太い糸・・・。
竿はこれまた見たこともない金属製の金具で頑丈に床と固定されている。
(のちにその金具は「ピトン」と呼ばれる竿受けの部品であることを知った)

「この常連さんはいったい何を釣ろうとしているんだ・・・。」

見当もつかなかった。
しばらく眺めていると、男性がリールを巻いて仕掛けを引き上げた。
糸の先にはなんとワイヤ。その先には大きな針がついていた。

男性はバケツから黒い物体を取り出した。なにやら無数のトゲトゲが付いている。
よくみると「ウニ」だった。

男性はそのトゲトゲ(ケン)をハサミで切り始めた。

全体のトゲを切るとまるで黒いたわしのようだ。

その中心に金属の棒で穴をあけ、針を装着して海の中に放り投げた。
底まで落としてアタリを待つ。

5分たっても10分たっても何の変化もない。
記者の性か、気になって仕様がない。聞かずにいられなかった。

「何を釣っていらっしゃるんですか?」
「イシダイですよ」
「イシダイ?イシダイって磯の王者と言われるあのイシダイですか?」
「そうだよ」
「こんなところでも釣れるんですか?」
「たまにね」

そんな会話を交わした後、私は遠巻きに男性の竿がしなるのを待っていた。

「イシダイがかかったらどれくらい引くんだろう・・・?」

このとき私はまだ、イシダイのど迫力を知る由もなかった。

                             つづく

2009年05月10日

樋口杯テニスに出場しました

みなさんはどんなGWを過ごしましたか?
私は第42回樋口杯テニストーナメントに出場してきました。
樋口杯は県内のテニスプレーヤーの頂点を決める大会。
国体の県予選も兼ねた大きな大会です。
去年の大会では3回戦で敗れた私・・・。
今年の目標はズバリ「3回戦突破」です!!。
会場となった鴨池陸上競技場のテニスコートには
岡本アナウンサーをはじめ会社の後輩らが駆けつけ応援団を結成、
あたたかい声援を贈ってくれました。

迎えたシングルス1回戦。
相手は大学生でした。
初戦ということもあり、緊張の上、動きも鈍くイージーミスを連発!
私は相手のストロークに振り回された挙げ句に足がもつれ転倒する場面も。
応援席からは大きな笑い声が聞こえてきました(悲)。

しかし何とか粘ってゲームカウント8-5で勝利しました。
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午後から行われた2回戦にはさらに多くの後輩らが集まってくれました。
事前に「試合の応援、来てくれるよね!」と私に脅され?
なかば「業務命令」で集められた後輩たちです。

でも2回戦は途中まで一方的な展開に。
対戦相手の青年はスマッシュが上手く、追い込まれた私のロブを
ことごとく叩き込んできました。
私は休み返上で駆けつけてくれた後輩たちに少しでもいいところを見せようと
走りに走り、拾いに拾いました。
一時ゲームカウントは3-6まで離されました。
応援席に目をやると「蛭川さん頑張れ!」の手作り横断幕が!!
後輩たちに元気をもらうと、サーブ&ボレーが奇跡的に決まりはじめ、
6-6まで追いつきました。

しかし、相手の青年は格上でした。
強烈なアプローチからネットダッシュ。
スマッシュを連続で決められ勝負あり。
結局ゲームカウウント6-8で敗れ、
私の樋口杯は終わりました。
応援してくれた後輩のみなさん、大した結果は残せなかったけれど、
みんなのおかげで最後の最後までボールをあきらめずに追うことができました。
本当にありがとうございました!!

次の目標は秋に行われる県テニス選手権大会。
去年は予選で敗退してしまった大会です。
今年は本戦目指して頑張るぞ!!


2009年01月04日

あきらめたら勝負はそこで終わり

新年明けましておめでとうございます。
全国高校サッカー選手権大会で県代表の鹿児島城西高校が快進撃を続けるなか、
私も正月からテニス大会に参加してきました。
2日に行われた「新春チャレンジシングルスIN知覧」です。

会場の知覧テニスの森は凍てつくような寒さ。
コートの周りにはなんと霜柱が!!
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大会には高校生から社会人まで約50人が参加、
16組の予選リーグからそれぞれ上位2人が決勝トーナメントに進出しました。

私は予選リーグを1勝1敗でぎりぎり突破。
決勝トーナメントも1、2回戦を勝ち抜くことができました。
しかし迎えた3回戦(その日5試合目)、
相手は県外の大学に通い冬休みを利用して帰省中の大学生。
一時はゲームカウント2-4まで離されましたがその後なんとか追いつき
6-6のタイブレークまでもつれました。
しかし、チャンスボールをことごとくミスした私がタイブレークを落とし、
結局ゲームカウント6-7で敗退。今年最初の試合はベスト8に終わりました。
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大学選抜目指し夢中でボールを追っていた頃から約15年。
メタボ解消のため、去年から本格的に再開したテニスは再び私の生き甲斐となっています。

今年で38歳。
もはや昔のように体は動きません。
相手のガットを切るような早いサーブも打てません。
長いラリーではすぐ息も切れます。

でもネット間際に落とされたドロップショットは
今でも全力で追いかけるようにしています。

たとえ躓いてこけても、足がつっても・・・。

なぜなら「あきらめたら勝負はそこで終わり」だからです。
これは去年秋に行われた県テニス選手権大会の予選で
高校1年生の男の子に負けて憔悴しきった私に
後輩の内田アナ(ウッチー)がメールしてくれた言葉です。

そう、あきらめたら終わりです。
今年もネバーギブアップの精神でテニスも仕事もがんばります!!

2008年12月25日

「修ちゃんの部屋」が再放送されます

今年11月2日に放送したNNNドキュメント’08
「修ちゃんの部屋~北朝鮮拉致・家族の30年~」が
再放送されることになりました。

番組は拉致被害者市川修一さんの奪還に向け
奔走する家族の戦いを記録したものです。

日時は12月30日(火)の午前6:00~6:30です。
是非ご覧ください。

2008年12月21日

もしあなたが選ばれたら・・・

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来年5月、国民が重大な刑事裁判に参加する裁判員制度が
いよいよスタートします。

一般市民の良識や生活の感覚を裁判に取り入れて
身近で迅速なものにしようというものです。

裁判員制度は調書など書証中心の「精密司法」から、
論点をしぼって法廷で心証を形成するための立証活動に重点を置く
「核心司法」への転換とも言われています。

すでに県内でも2300人が来年度の裁判員の候補者に
選ばれています。

「裁判員候補者の通知がきたら、是非やってみたい」と制度に前向きな人、
「仕事が忙しいんだけど・・・。」「法的知識がないけど大丈夫かな?」
「心理的負担が大きいのでは…。」と不安な表情を浮かべる人。
取材を通してみなさんが様々な思いを抱いていることがわかりました。

KYTでは22日午後5時30分からこの裁判員制度に関する
報道特別番組「もしあなたが選ばれたら・・・~動き出した裁判員制度~」
鹿児島地方裁判所の法廷の中から生放送します。

番組では鹿児島の法曹3者のトップをゲストに招き、
制度についてわかりやすくお伝えします。

現役の検察官と弁護士に従来の裁判がどのように変わるのか再現してもらうほか、
法曹3者のトップが市民からの疑問や不安に答えます。

是非ご覧ください。


2008年12月10日

もう1つの3億円事件

「犯人は3人。名前は・・・」

2005年4月末のことです。

公園のベンチに座りながら男性は落ち着いた口調で話し始めました。
最初なんとなく耳を傾けていた私は、
10分もするとノートに必死にメモを取っていました。

事の始まりはSと名乗るホームレスの男性からかかってきた1本の電話。

「3億円事件について話したいことがある。」というものでした。

3億円事件とは今からちょうど40年前のきょう、
1968年12月10日に東芝府中工場のボーナス約3億円を積んだ現金輸送車が
ニセの白バイ警官に車ごと盗まれたという大事件のことです。

私はJR鹿児島中央駅裏の公園でS氏と会いました。
S氏は長く伸ばしたヒゲに触れながら冒頭の言葉を切り出したのです。

「犯人は単独犯ではない。白バイは2台あったんだ。」

S氏は直接犯行にはかかわっていないものの、
盗んだ金をある場所から別の場所に移す作業を手伝わされたというのです。

犯行にかかわった3人の身上経歴、犯行が計画された背景、
犯行前の準備、犯行前と犯行後の行動、証拠隠滅の方法、
盗んだ金の保管と配分、3人のその後、残った金の保管場所・・・。

何を質問しても流れるように自然な答えが返ってきました。
証言の矛盾を突こうとわざと時間を置いて再び同じ質問をしても
「さっき言ったでしょ、それをやったのは○○!」
S氏は整然と答えたのです。

彼の証言はなにもかもが具体的で実際に事件にかかわっていなければ
語りえないと思えるほど真実味を帯びた内容でした。

「ひょっとしてこれは世紀の大スクープなのかな?」

胸が躍りました。気がつくとS氏への取材は4時間に及び、
ノートのメモは7ページを超えていました。

S氏の目的は2つ。
①「犯行にかかわった3人のうちの1人が鹿児島にいる」との情報があり、
一緒に捜してほしい。
②「盗んだ金の一部が残っているので
隠した場所に一緒に行ってほしい」というものでした。

私は連絡用のテレフォンカードをS氏に手渡し、
ゴールデンウィーク明けに電話をもらう約束を取り付けて別れました。
しかし、S氏から再び電話がかかってくることはありませんでした。

その後、在鹿のマスコミ各社や九州各地のテレビ各局に
S氏から同じような情報提供があったことを知りました。

中には「拾ったテレフォンカードで電話している」と
連絡が入った社もあったそうです。
(私が渡したテレフォンカードでしょうか?)

さらにS氏の証言は数ある3億円事件を扱ったフィクションの1つに
よく似たものがあることも聞かされました。

にしても具体的で迫真に満ちたS氏の証言。

その証言が真実か否か、
今となっては確認することはできません。

私は毎年、きょう12月10日を迎えるたびにS氏のことを思い出します。

S氏との出会いは私にとってもう1つの「3億円事件」なのです。


2008年11月17日

「奪還」のその日まで

 拉致被害者市川修一さんの母・トミさんが15日午後、息子の奪還を果たせぬまま、入院先の病院で亡くなりしました。91歳でした。トミさんは今月10日の朝、鹿屋市輝北町の自宅の台所で炊事中にクモ膜下出血を起こして倒れ、市内の病院に運ばれました。15日午後3時22分、家族が見守る中、静かに息を引き取りました。

 トミさんの二男・修一さんは1978年8月、増元るみ子さんとともに日置市の吹上浜で拉致されました。トミさんにとって「修一さんを見た」という北朝鮮の元工作員の証言が心の支えでした。2002年9月、初めての日朝首脳会談で一方的に修一さんが「死亡した」と通告されたあとも、息子の生存を信じ、帰国を待ち続けていました。帰らぬ子を待ち続けて30年。トミさんの願いは届きませんでした。

 15日の夜、トミさんの訃報をニュースで伝えたあと、私も仮通夜が営まれた鹿屋市の葬祭場を訪れました。何時間も泣いていたんでしょう。修一さんの兄・健一さんの目は真っ赤に腫れていました。トミさんはまるで眠っているような安らかな顔をされていました。

 私たちが取材に行くと「ご苦労さまです。お世話になります。」といつも笑顔で迎えてくれたトミさん。あの優しい笑顔が浮かんで涙が止まりませんでした。
 「元気なうちに修一に会いたい」と会うたびに話していたトミさん。健一さんは「トミさんの死」をこう捉えているといいます。

   「お袋は身を挺して拉致問題の早期解決を訴えたんだよ」

 17日に営まれた葬儀告別式で拉致被害者家族会の飯塚繁雄代表は「一刻でも早く解決・帰国させることを約束します。修一さんが残された家族の方に絶対会えることを約束します」と決意を述べました。

 私も「被害者家族の流す涙が、悔し涙からうれし涙に変わるその日まで取材を続けよう」、改めてそう思いました。

市川トミさんのご冥福を心からお祈りいたします。

2008年10月24日

拉致問題テーマのドキュメンタリーを放送します

 11月2日(日)の深夜1時10分から北朝鮮の拉致問題を考えるドキュメンタリー番組が
日本テレビ系列で全国放送されることになりました。番組名は
NNNドキュメント’08「修ちゃんの部屋~北朝鮮拉致・家族の30年~」です。

 2002年9月の日朝首脳会談で北朝鮮が初めて拉致を認め、
翌月には生存とされた5人の被害者が帰国を果たしました。
一方で「死亡」と通告された拉致被害者家族の時計は止まったままです。
 秋までに行われるはずだった拉致被害者の再調査は
福田政権の突然の退陣で暗礁に乗り上げ、
アメリカが北朝鮮に対するテロ支援国家指定の解除に踏みきるなど
拉致問題解決への道は遠のくばかりです。

 鹿児島の拉致被害者・市川修一さんと増元るみ子さんが拉致されてから今年8月で30年。
番組では膠着状態のなかで救出活動に奔走する「家族の今」をお伝えします。
 高齢化が進む被害者のご家族がどんな思いで
修一さんやるみ子さんの帰国を待ち続けているのか・・・。
ぜひ感じ取っていただきたいと思います。

 拉致問題は決して他人事ではありません。
与野党が解散・総選挙のタイミングをめぐり綱引きをしている今、
この瞬間も北の地では私たちの同朋が助けを待ち続けているのです。

 拉致問題の取材を続けて6年になります。
被害者家族のもとを訪れるたびにみなさんの「悔し涙」に接してきました。
私は被害者の帰国が実現し、この「悔し涙」が「うれし涙」に変わるまで
取材を続けたいと思ってます。 

2008年04月28日

チャレンジ精神を忘れずに…

26日、樋口杯テニストーナメントの3回戦に臨んできました。
先週行われた1.2回戦の筋肉痛もほとんど消え、万全の体調で挑みました。

しかしー

相手は一枚も二枚も格上でした。
流れるように美しいスピンサーブはバウンドしたあとバックサイドにキックして打ちづらいこと。
ストロークもフォアハンドは的確にコーナーを打ち分け、
バックハンドはナイフのように切れ味鋭いスライスでした。

一方、私は凡ミスの連続に加え、終始振り回され、結局2-8で敗退しました。
私の20年ぶりの樋口杯への挑戦は3回戦で幕を閉じました。

久し振りの試合はドキドキの連続でしたが、ポイントを決めたときの快感、
相手とのかけひきなど・・・テニスの楽しさを完全に思い出させてくれました。
例のごとく全身筋肉痛になりましたが(笑)

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テニス界をめぐっては私と同じ37歳のクルム伊達公子さんが公式戦への復帰を表明。
27日も見事な試合を見せてくれました。

伊達さんは自身のブログの中で復帰の理由についてこう明かしています。
①「テニス界に感謝」すること。
②「世界のトップで戦える日本人が早く育ってほしい」という願い。と同時にプレイヤー達に刺激を与えたい。テニス界の活性化。
③「チャレンジ」することが好きだと言うこと。

私も伊達さんを見習い、「チャレンジ精神」を忘れずに仕事もテニスも頑張っていこうと思っています。
最後に休日にもかかわらず応援に来てくれた内田アナら後輩のみなさん、ありがとう!とても心強かったよ!!

2008年04月21日

心は歳をとらない

きのう第41回樋口杯テニストーナメントに出場しました。

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「樋口杯」とは昭和23年に鹿児島県テニス協会を設立し、鹿児島県のテニスの普及に尽力した樋口佳雄氏がより一層の選手育成強化を願って昭和43年に寄贈し大会が始まった由緒ある大会です。私も鹿屋高校時代、新人戦ダブルスでベスト16に入った思い出の大会です。

あれから20年・・・。私は37歳になりました。

社会人になってからはほとんどラケットを握る機会もなくなり、最近ではポッコリお腹が気になるようになってきました。階段を上り下りするだけで「ハアーハアー」と息切れし、少し走ろうものならあっという間に吐きそうに・・・。

「このままでいいの?学生時代の鋼のような体に戻りたい!」
「昔のように無心でボールを追いかけたい!!」

そんな思いを抱き去年夏、テニススクール(エルグ)の門をたたきました。

最初はメタボ対策にと軽い気持ちで週に1回のレッスンを受けていましたが、
コーチ陣の高い技術力と指導力に憧れを抱き、いつのまにか
「俺もあんなすごいショットを打ちたい!」と思うようになりました。
以来、この半年間、テニス漬けの生活を送っています。

折りしも今年2月、デルレイビーチ国際で18歳の錦織圭選手が男子ツアーで16年ぶりに優勝するなど日本のテニス界が盛り上がりを見せています。私も毎晩のようにビデオに録った錦織選手の試合を見てイメージトレーニングを重ねてきました。

試合前日の夜には自身の気持ちを鼓舞するため、「ロッキー・ザ・ファイナル」のDVDを借りてみました。ロッキーは私に語りかけます。

「心は歳をとらない」と。

涙が止まりませんでした。
そして迎えたきのうの樋口杯一回戦。

私の強圧的・追及的な誘いを断れなかった会社の後輩たちも応援に駆けつけてくれました(笑)。

お世辞にも美しいとはいえない自己流のストローク、ぎこちないサーブ&ボレー、
本人もどこに飛んでいくか予測不能のバックのトップスピンも奇跡的に決まり、なんとか初戦を突破。

続く2回戦は体力の消耗戦。タフな試合となりました。試合は8-8のタイブレークまでもつれましたが後輩たちの応援のおかげでこちらも何とか勝つことができました。

一夜明けたきょう、私は起き上がれませんでした。全身筋肉痛です。

3回戦は26日(土)。それまでに筋肉痛が治ればいいのですが。次も頑張ります!!

2008年03月28日

キャスターを卒業します

春は卒業の季節です。
実は私蛭川も本日28日(金)をもってリアルタイムのキャスターを卒業することになりました。

4月からは番組の屋台骨であるデスクを担当します。
リアルタイムを裏方から支えていく、いえ引っ張って行く重要な仕事です!

私が夕方のキャスターに就いたのは2005年10月のこと。
当時はまだ「KYTニュースプラス1」という番組名でした。
以来2年半に渡って「鹿児島で今、起きていること」にこだわって走り続けてきました。

特に印象に残っているのはやはり被告12人全員が無罪となった「志布志事件」への取り組みです。
このニュースをめぐっては幾度となく踏み込んだ内容を放送すべきかどうか判断に迷う場面に立たされることもありました(特に無罪判決前)。

そこで「真実を伝え続ける勇気」の原動力となったのは
視聴者の皆様からお寄せいただいた数多くの応援メールやお手紙でした。

この場を借りて改めて御礼申し上げます。ありがとうございました!!
(もちろん志布志事件は真相が解明されるまで徹底的に追及し続けます)

これからは去年10月から私とタッグを組んでもらった同期の近藤キャスターが1人でスタジオを守ることになります。

あたらしいリアルタイムは記者解説や中継を多用し、
これまで以上に「旬でわかりやすいニュース」を目指します!。

私はそのニュースを統括するデスクとして引き続き近藤キャスターを支えていきます。
視聴者の皆様、これからもリアルタイムを宜しくお願いいたします!

アナウンサーは続けますので画面で見かけた際は応援よろしくお願いします!

2008年01月02日

今年はやります!!

新年明けましておめでとうございます。私はきょうが仕事始めです。
それにしても今年の正月は寒かったですね~。

強い冬型の気圧配置の影響で桜島もご覧の雪化粧(元日撮影)。

帰省先の鹿屋から鹿児島市に戻ってくる際、あまりの美しさに車を停めてしばらくの間見入ってしまいました。

さて、私の今年の目標は「昔の体を取り戻せ!!」です。
2月で37歳になるのですが、年々風邪を引きやすく疲れが溜まるようになってきたのです。しかもお腹はタプタプの中年腹に・・・。

「なんとかこのメタボ予備軍からの脱却を図りたい!」

そこで始めたのが「テニス」です。
実は去年夏ごろから週に一度テニススクールに通っています。
高校・大学時代に夢中になってやっていたテニス。
でも社会人になってからは周りにやる人がほとんどいなかったため、ラケットは長いことホコリをかぶっていました。
秋頃から次第に体が動くようになり、最近では思い通りのショットがちょっとづつではありますが打てるようになってきました。

「そろそろ試合に出てみるか・・・」

今の自分の実力を試すため、おととい(2日)知覧で行われたシングルスの試合に出場しました。
前日の夜は興奮してほとんど眠れなかった私。遠足前の子どものようでした(笑)。
この日は朝から小雨が降ったり止んだりのあいにくの天気。
でも雲の切れ間から時折太陽が覗くとこんなキレイな虹が!!
久し振りの試合出場を祝ってくれているようでした。

ところが会場の知覧テニスの森公園に着くとびっくり!!雪が積もって銀世界が広がっていたのです。

気温は3度から4度。外に5~6分いるだけで鼻水が垂れてくるような厳しいコンデションの中、試合が始まりました。私は1勝1敗で予選をなんとか突破し本選に出場できました。

本選では1回勝てたものの、2回戦で早々と敗退しました。ちょっと走っただけで息切れはするわ、
足はつるわで本当に体力の衰えを感じました。しかも試合後、全身筋肉痛に見舞われ、きょうは体中に湿布を貼って出社したんですが、新年早々報道フロアーに湿布臭を漂わせております(笑)。

でも体を動かすことの楽しさ、試合前の独特の緊張感を味わえただけでも大きな収穫でした。
今年はたくさん試合に出場したいと思っています。

もちろん、本職のニュースもがんばります。
今年は視聴者のみなさまが元気になれるような楽しいニュースのほか、リアルタイムという番組名の通り「今起きている」旬なニュースををたくさんお伝えできるようスタッフ一同精進して参ります。

2008年もKYTを宜しくお願いいたします。

2007年12月19日

海づり公園最高!


雄大な桜島を眺めながらの釣りは最高の贅沢ですね~。
おととしの台風で釣り台が水没した鹿児島市の鴨池海づり公園が復旧工事を終え、
今月初旬、約2年3か月ぶりに営業を再開しました。
早速私も息子2人を連れてピカピカに生まれ変わったばかりの海づり公園に行ってきました。




仕掛けは単純。

餌のキビナゴを2センチほどの大きさに切っておもりとともに海底へ沈めるだけ。

すると二男(3)の竿にピクピクッとすぐにあたりが!!
「パパ重いっ!!」
引き上げてみると20センチほどのアラカブがかかっていました。




長男(6)も奮闘し、結局アラカブが大小4匹釣れました。
4匹は煮付けとなり、我が家の晩御飯へ(笑)。



手軽に釣りを楽しめる海づり公園、最高です!!

2007年11月09日

竹かごのぬくもり

しなやかでぬくもりのある竹製品。
素朴で懐かしい感じがしますよね。実はこの竹かご、私の手作りなんですよ。
8日に鹿児島アリーナで開幕した「全国伝統的工芸品フェスタ」(~11日まで開催)の体験コーナーで作ったものです。
網目部分はある程度編み上がったところからスタートしました。
それでも複雑に組まれた竹を見ているだけで目が回り、すぐに手が止まってしまいます。
竹が折れないように霧吹きで水をかけながら慎重に編み上げていくと・・・
職人さんの手ほどきを受けながら、約1時間30分でこんな立派な籠が完成しました!!
丁寧に指導してくださった職人さん、本当にありがとうございました。
竹製品は使えば使うほどいい味が出てくるといいます。
パンを入れたり、果物を入れたり・・・。我が家の食卓を飾る新しい仲間となりました。

大事に使っていきたいと思っています。

竹かごくん!末永く宜しく!!

(一緒に竹かご作りをさせていただいた鹿児島工業高校のみなさん、突然の飛び入り参加にもかかわらず、快く仲間に加えていただきありがとうございました!)

2007年09月28日

リアルタイムが変わります!

きょうからKYTニュースリアルタイムが変わります!先月一杯でKYTを卒業した徳住有香キャスターにかわり、新たに近藤久美子キャスターとともにお伝えすることになりました。私も近藤キャスターも鹿児島出身。1994年のKYT開局以来、夕方のニュースを県出身者の2人がお伝えするのは初めてです。そして2人とも開局1期生なんです。KYTとともに歩んできた2人。新たに生まれ変わったリアルタイムにご期待ください!!

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